2012年8月22日水曜日

昔々の話かもしれないが

昔々の話になってしまったようなことをしていて、でも、それは自分の中でどうしてもしこりになっていて。今の自分が見ても変わらない考えに基づいていても。


今や昔々になってきて、もう忘れ去られているけれど、それに触れられるたび、それになにか関連する度、ふと、泣き出しそうになる自分を見る。「そんな時代もあったねと、いつか話せる日が来るわ」と中島みゆきは歌っているけれど、そのいつかは昔となった今でもまだ来てはいない。

周りの人が先に行っているように思う度に、自分にとっての昔々が思い出されて辛くなる。泣き出したい時もあるし、どうしようもなくしんどい時もある。昔々の話かもしれない。その話を直接していないかもしれない。もはや忘れ去られて、気にも留められてはいないだろう。でも、その中で、ふと自分で思い出してしまい、辛くなるものがある。パンドラの箱が、ちょっとしたきっかけで開いてしまったかのように。

「どうしてという僕は多分もういない」「許せないものに愛さえ感じたり、噂の塊を喉元で噛み砕く」「ああ、僕の考えていたことは自分を自由にさせること」「ああ、手にするものは何もない あきらめられないものもない」吉田拓郎は"現在の現在"でそう歌っていた。なぜかはわからないけれど、それが自分の心に一番しっくりくるように思う。重い塊が胸に、頭に、心にのしかかっている自分を、更に重くさせるような、それが、今の勇気のない自分で。

勇気を失い、行動力を失った。もう、諦められないものも、ほとんどなくなってきたのではないだろうか。それらを失ったのは、昔々の話から始まる、自分が一番しんどかった時期ではないだろうか。そう思って考えるほどに、失ったものの重さを知る。

「人生に校了作業があるならば、どれほどの手をいれることだろう」とは、モーパッサンの言葉だったか。今ならどうするだろう。今なら何をするだろう。それでも、過去は岩でもう変えられない。シドニィ・シェルダンがその著「ゲームの達人」でケイトの口を借りていった言葉が、読んだ時からは思いもよらないほど深く自分の心に響く。

幸せな友人を見て、その幸せを願う。平気なふりして何か話す。その度に、その度に、無理してるな、って思う。それでも、弱みを見せられる友人はごく限られるから、いつも頼れる場所にいるわけじゃないから、少なくとも、こうして文章に表して、整理をつけようとあがいている。

昔々の話かもしれないが、パンドラの箱になった話がある。まだそれは、私の中で昔話にできるほど、過去になっていない。それがなにかの拍子で開いてしまった時、たまらなく泣きたくなってくる。とやかく言われる度に、自分の中でこれ以上なく辛い気持ちがやってくる。

自分の未来ってなんやろう、って思う。幸せそうな、元気そうな旧友の姿を見る度に落ち込んでしまうような、そんな自分の現在やのに、未来なんて描けないな、って思う。どんなに自分を騙そうとしても騙せない。未来があるといくら思い込んだって、それはただ暗いばかりに思えてしまう。嫌われ者ってのは、そんなもんなんやな、って。

わざわざ読んでもらってありがとうございます。ただ、自分の気持を整理するだけの文章なのに、わざわざブログに載せていて…。でも、それだけで、少し気持ちがマシになります。

2 件のコメント:

つきみそう さんのコメント...

 我が子を見ていて思います。小学校に上がる頃までは、本当にかわいくておしゃれな子でした。どこかのイヴェント会場でもらった野球帽を、サッと斜めにかぶる。どこから見てもきまっていて、何をどのように着ても似合うことのない自分の子供だとは思えませんでした。

 今、その子は成人して、見ためは何とも無惨な、そう、クラスにそいつがいれば近づきたくないような、そんな感じです。しっかりおしゃれをしてこぎれいにしていないと、自分みたいになってしまう・・・という焦りを感じます。母親が服を買いに行こうと誘っても拒絶する彼に、今こそ自己表現しなくてはという意味のことを告げても、無意味だ、無理だという答しか返ってきません。

 結局、彼は私を見習ってしまったのでしょう。私は議論ができません。人の意見がすべて自分の意見より正しいように思えて、反論できません。ずっとそうやって生きてきて、どうせ自分なんて・・・・・と納得していたつもりでした。

 恐ろしいことです。私はもう10年か20年もすれば土に還りますが、息子はまだまだ生きなくてはならない。その彼が「私みたいなもの」を引きずって生きていくと思うと、胸が締め付けられる思いです。が、その事態を招いたのは他ならぬ自分なのです。

 クリスチャンではありませんが、私は私が生きているだけでも罪だと思っています。やはり、私の遺伝子なんて残すべきではなかった。何より、人にものを教え、導く仕事をしているということ、この罪の大きさにおののいています。

 こんな私でも、一つだけ自信を持っていえることがあります。あなたは立派です。欠けているもの、間違っているところ、そういうものがあるとすれば、あなたが自分自身を認めてあげることです。現に生きている自分を認めてやれないことほどつらいことはありませんし、あなたにこの先、そういう道を歩んで欲しくはありません。私だけで十分です。

達哉ん/Tatuyan さんのコメント...

>つきみそうさん
ありがとうございます。
自分自身を認めてあげる事、決して簡単には出来そうにありませんが、そうできるようにしてみたいと思います。でも、実際のところ、無駄に自信過剰なところがあったりしますし、でしゃばりなところもありますので、うまく兼ね合いを取らなければいけないなぁ、と思います。
随分、心の支えになります。ありがとうございます。