親しくしている後輩は皆労たし、と私がいったところで別に何の反応が得られるわけでもなく、多くの友人は「またか」という程度ですが。
後輩を可愛いと思うのは今に始まったことではありません。学童保育に通っていた頃、既にその片鱗はあったように思い返しますので、三つ児の魂百までというのはよく言ったものだと思います。私の本質的な部分…見栄っ張りだとかおしゃべりだとか後輩好き(というよりは自分よりも立場的にあるいは年齢的に下の人好き)だとか…はちっとも変わっていません。この3点考えると、後輩の前では見栄をを張って話し放題だから後輩が好きなのだ、と言われるかもしれませんが、いえいえ、私は道端でまだ小学生になっていない子供を見ても、いとけなく可愛いなと思いますから、見栄とはあまり関係ないようです。
そんな後輩に話をしているときに、非常に興味深げに聞いてくれることがあります。題材にもよりますし、その後輩の興味の方向にもよりますが、興味深く話を聞いてもらえるというのは実にありがたい事です。例えば桃鉄の話をしていたら、興味を持って私の部屋にプレイしに来た後、はまってしまった後輩がいます。彼と食べに行くと、とりあえず桃鉄の話です。各々の考えた戦略を話し合うのですが、私が戦略を話しているとき、その後輩の反応は素晴らしいです。「そのターンで〇〇のようにするのはなぜですか?」「こうすることで〇〇となるのを防いで自分だけ得できるわけだ」「でも逆に〇〇をせず△△をするという手もあるのでは?」「あ、確かに!」といった具合です。
興味が有るか無いかは相手の反応の中で、特に相手が質問を多くするかどうか、自分の意見を発するかどうかで見えてきます。それも通り一遍ではない意見を発するかどうかです。
先日、ある後輩にCプログラミングの指導の第1回を行いました。「まだ現状ではよくわからなくてもいいけれど」といった上で、#includeやint main(void)、returnの意味を説明しました。後輩は、その各々について逐一質問した後に、「まだ実感を伴ってわかったようには思えないのですが、大丈夫でしょうか?」と聞いてきました。ひとまず「現状では完全な理解、体に染み込む理解は無理だと思うから、また後で再度同じことを説明する。それまではreturnは返却値を示して、mainの場合はプログラムの終了の状態をOSに出すということをなんとなく頭の片隅においておけばいいよ」と答えました。しかしながら、これは実に良い質問です。この質問一つでその後輩が興味を持っているということを感じましたし、その後輩は間違い無くプログラミングの才能があると感じました。
私は、才能=素質+興味 だと考えています。たとえどんなに素質があったところで、何がなんでもやりたくないと思っている人は、その分野に長じることはありません。わかり易い例で言えば、どんなに鋭敏な味覚を持っていたとしても、食べ物は栄養補給源でありさえすればいいという人は「食通」にはならないし、なれないでしょう。逆に、興味があれば、たとえその分野の素質で劣る点があったとしても、興味が有る故積極的に行動しますから、きっとその分野に長じることでしょう。体格的に劣っていてもバスケットボールが好きだからと必死に練習した人がトッププレイヤーになること、十分に考えられます。
天才と言われる人も含めて、多くの人が努力の大切さを述べています。その人々は才能はほんの少ししか寄与していない、といいます。この意味での才能は、私の言うところの「素質」であり、何より「その分野について努力できる才能」、つまり興味がなければ何の意味もなしません。努力は皆大切だといいますが、努力のために必要不可欠な才能、興味というものを有する後輩には、決してその興味を失ってもらいたくないと思いますし、また同時に、少しでもその興味を深められればと思うのです。
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